宮城まり子。その名は、昭和の芸能界に燦然と輝き、障害者福祉の分野で日本に新たな希望の光をもたらした女性として、今も多くの人々の心に刻まれています。歌手、女優、慈善活動家、映画監督と、彼女の肩書きは多岐にわたり、その人生は波乱に満ちながらも深い愛と信念に支えられたものでした。特に、『アンパンマン』の生みの親、やなせたかしとの出会いは、彼女のキャリアに鮮やかな一ページを加え、名曲「手のひらを太陽に」の誕生へとつながりました。
宮城まり子のプロフィール:一目で分かる基本情報

| 項目 | 内容 |
| 本名 | 本目 眞理子(ほんめ まりこ) |
| 生年月日 | 1927年3月21日 |
| 没年月日 | 2020年3月21日(享年93歳、誕生日と同日に逝去) |
| 出身地 | 東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区) |
| 職業 | 歌手、女優、慈善活動家(福祉事業家)、映画監督 |
| 主な功績 | 日本初の民間肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」設立、NHK紅白歌合戦8回出場、瑞宝小綬章受章、従五位叙位 |
| 代表曲 | 「ガード下の靴みがき」「手のひらを太陽に」「毒消しゃいらんかね」 |
| 代表作(舞台) | 「まり子自叙伝」(テアトロン賞受賞)、 「12月のあいつ」(芸術祭賞受賞) |
| 代表作(映画) | 「ねむの木の詩」「ねむの木の詩がきこえる」(監督作品) |
どんな人?やなせたかしを虜にした宮城まり子の魅力
宮城まり子は、昭和の芸能界で「スター」の名にふさわしい輝きを放った女性でした。彼女の歌声は、甘くも力強く、時に切なく、聴く者の心を鷲づかみにしました。戦後の荒廃した日本で、彼女の歌は希望の灯となり、子供から大人までを魅了。舞台女優としては、笑いと涙を誘う圧倒的な表現力で観客を惹きつけ、彼女自身の人生がまるで一編のドラマのように舞台で息づいていました。
やなせたかしが彼女に心を奪われたのも当然のこと。1958年、宮城からの一本の電話がきっかけで、彼女のリサイタルの構成を依頼されたやなせは、最初は気乗り薄だったものの、彼女の「甘く温かい声」と「情熱的な人柄」にすぐに引き込まれました。やなせは後年、「まり子さんの声には、人の心を動かす不思議な力があった」と述懐しています。この出会いは、後に日本中の子供たちに愛される「手のひらを太陽に」の誕生へとつながる、運命的な一歩でした。
活動経歴:芸能の頂点から福祉の先駆者へ

1. 幼少期と芸能界への第一歩
- 1927年:東京・蒲田の町工場を営む父と学識ある母のもとに生まれる。裕福な家庭だったが、父親の事業失敗と母の病死により生活が一変。
- 1930年代:小学校卒業後、弟(後の作曲家・宮城秀雄)と共に吉本興業に入り、戦時中の1944年、17歳で「宮城千鶴子」の芸名で大阪花月劇場に初舞台。
- 1948年:戦後、父親と弟と共に上京。浅草の舞台で頭角を現し、劇作家・菊田一夫の目に留まり、日劇の主役に抜擢される。
2. 歌手・女優としての黄金期
- 1950年:テイチクから「なやましブギ」で歌手デビュー。ビクター移籍後、「あんたほんとに凄いわね」が初ヒット。
- 1953年:「毒消しゃいらんかね」が大ヒット。軽快なリズムとユーモラスな歌詞で一躍スターの座に。
- 1955年:「ガード下の靴みがき」が爆発的ヒット。NHK紅白歌合戦に1954年から1958年、1960年から1962年まで計8回出場。
- 1958年:日本初のカラー長編アニメ「白蛇伝」で声優を務め、舞台「12月のあいつ」で芸術祭賞受賞。
- 1959年:自伝的舞台「まり子自叙伝」でテアトロン賞を受賞。映画化もされ、女優としての評価を確立。
3. 福祉事業への転身と「ねむの木学園」の設立
- 1968年:41歳で芸能活動をほぼ引退し、静岡県に日本初の民間肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立。障害を持つ子供たちの「居場所」を作るため、自身の財産を投じ、私財をなげうつ覚悟で取り組む。
- 1973年:学園設立の功績が認められ、吉川英治文化賞受賞。
- 1974~1986年:自ら監督を務めた記録映画「ねむの木の詩」「ねむの木の詩がきこえる」を制作。子供たちの純粋な姿を世界に発信。
- 1979年:ねむの木養護学校設立。総理大臣表彰を受ける。
- 1980年代~:学園の子供たちに手描き友禅やコーラスを指導。劇団「虹」を結成し、美術展をパリやニューヨークで開催。子供たちの創造性を世界に示す。
4. 晩年と不滅の遺産
- 2004年:東京都名誉都民、掛川市特別有功賞受賞。
- 2012年:瑞宝小綬章受章。同年、銀座ヤマハホールで30年ぶりにシャンソンを披露し、往年の歌声を響かせる。
- 2020年:悪性リンパ腫のため、93歳の誕生日に逝去。学園葬では、子供たちが「お母さんがお空にお出掛けしたよ」と涙ながらに見送った。
- 同年5月:従五位に叙される。
やなせたかしとの絆:名曲「手のひらを太陽に」の誕生秘話

宮城まり子とやなせたかしの出会いは、1958年の春、彼女からの一本の電話から始まりました。当時、売れっ子歌手だった宮城は、やなせにリサイタルの構成を依頼。気乗り薄だったやなせでしたが、彼女の「温かく、どこか懇願するような声」に心を動かされ、引き受けることに。この出会いが、後に日本中の子供たちに愛される名曲「手のひらを太陽に」の誕生へとつながります。
1960年、宮城は「子供たちに希望を与える歌を」とやなせに作詞を依頼。やなせは、戦後の貧困や自身の戦争体験を背景に、「生きていることの素晴らしさ」を歌う詞を書き上げました。宮城の力強くも優しい歌声は、この曲に魂を吹き込み、1962年のNHK「みんなのうた」で初放送されると、瞬く間に全国の子供たちに愛される曲となりました。
エピソード:やなせは後年、「まり子さんの歌声がなければ、この曲は生まれなかった」と語っています。彼女の声は、やなせの詞に命を与え、後に『アンパンマン』のテーマにも通じる「希望と愛」の精神を体現しました。
宮城まり子の遺したもの:現代へのメッセージ
宮城まり子の人生は、単なる成功物語ではありません。彼女は、戦後の混乱期に歌で人々を励まし、障害を持つ子供たちに新たな可能性を示し、社会に「愛」と「希望」の大切さを教えてくれました。ねむの木学園は今もその精神を受け継ぎ、子供たちの笑顔を育んでいます。
まとめ:宮城まり子、永遠のスター
宮城まり子は、昭和の芸能界を彩ったスターであり、福祉の先駆者として日本に新たな道を切り開いた偉大な女性でした。やなせたかしとの出会いから生まれた「手のひらを太陽に」は、彼女の歌声と共に、今も多くの人々の心に響き続けます。彼女の人生は、歌と愛で時代を照らし、どんな困難にも立ち向かう勇気を私たちに教えてくれるのです。


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